秦や漢の経験から唐は何を学んだのか
秦は重い負担によって短期間で滅びました。
漢は負担を軽減することで長期安定を実現しました。
しかし新たな問題も生まれます。
人口が増え続けると税を集める仕組みが複雑になるのです。
そこで唐の皇帝たちは考えました。
どうすれば農民へ過度な負担をかけずに国家を維持できるのか。
どうすれば安定して税を集められるのか。
こうして誕生したのが均田制・租庸調・府兵制です。
ところが、成功した制度にも思わぬ弱点がありました。
第2章では唐王朝が生み出した税制の仕組みと、その崩壊、そして両税法への改革を体験します。

第2章 唐王朝の税革命
もしあなたが唐の皇帝なら、
土地を持たない農民へ土地を配りますか?
それとも別の方法で税を集めますか?
唐王朝の挑戦が始まります。
なぜ唐は均田制を始めたのか

唐王朝は、中国史の中でも特に繁栄した王朝として知られています。
しかし唐の繁栄は偶然生まれたものではありません。
皇帝たちは国家を安定させるために大きな課題へ向き合っていました。
それは、どうすれば安定して税を集められるのかという問題です。
第1章で学んだように、秦は税・徭役・兵役によって国家を支えました。
しかし負担が重くなりすぎた結果、民衆の不満が高まり滅亡へ向かいました。
漢は負担軽減を進めましたが、人口増加や土地問題という新たな課題が生まれます。
そこで唐は新しい仕組みを考えました。
それが均田制です。
均田制とは、国家が農民へ土地を支給する制度です。
農民は土地を持つことで生活を維持できます。
国家は土地を持つ農民から税を徴収できます。
さらに兵士も確保しやすくなります。
つまり均田制は、税収と軍事力を同時に安定させるための制度だったのです。
均田制とは何か
均田制は北魏で始まり、唐で本格的に運用されました。
国家が農民へ耕作地を与え、農民はその土地で生活します。
土地は完全な私有財産ではありませんでした。
原則として死亡後には国家へ返還されます。
そのため国家は土地の管理を継続できました。
| 制度 | 内容 |
|---|---|
| 均田制 | 国家が農民へ土地を支給する制度 |
この制度の最大の目的は公平な土地配分でした。
もし一部の豪族が土地を独占してしまえば、多くの農民は土地を持てません。
土地を持たない農民から税を集めることも難しくなります。
均田制はその問題を防ごうとした制度だったのです。
なぜ土地を配る必要があったのか
土地は単なる農地ではありません。
国家運営の基盤でした。
農民が土地を持てば農作物を生産できます。
農作物が生産されれば税も徴収できます。
さらに土地を持つ農民は兵役の対象にもなります。
つまり土地は税制と軍事制度を支える出発点でした。
ゲームの中で李世民が悩んでいたように、税だけを考えても国家は維持できません。
兵士も必要です。
農民の生活も必要です。
均田制はそれらを一つの制度で解決しようとした挑戦だったのです。
均田制のメリット
均田制には多くの利点がありました。
まず税収が安定します。
次に農民が生活基盤を得られます。
さらに国家が人口や土地を把握しやすくなります。
これにより徴税や兵役の管理も効率化されました。
唐が繁栄できた背景には、この均田制による安定した社会基盤が存在していたのです。
租庸調と府兵制はどのような制度だったのか
均田制だけでは国家は成り立ちません。
土地を配った後に何を負担してもらうかが重要です。
そこで登場するのが租庸調と府兵制です。
この二つは均田制と密接に結び付いていました。
唐の税制を理解する上で欠かせない存在です。
租庸調とは
租庸調とは唐を代表する税制度です。
土地を受け取った農民は国家へ負担を行います。
内容は次の通りです。
| 種類 | 内容 |
|---|---|
| 租 | 穀物 |
| 庸 | 労働または代納 |
| 調 | 特産物 |
租は穀物による税です。
庸は労働力の提供を意味します。
調は布や絹など地域の特産物を納める制度です。
税の形が一種類ではないことが特徴です。
国家は様々な資源を確保できました。
農民も一つの負担だけに依存しなくて済みました。
府兵制とは
府兵制は唐の軍事制度です。
土地を持つ農民が兵士としても活動しました。
平時は農業を行います。
戦時になると軍隊へ参加します。
この制度によって唐は巨大な常備軍を持たずに済みました。
国家財政への負担も軽減できます。
つまり均田制によって土地を与える。
租庸調によって税を徴収する。
府兵制によって兵士を確保する。
三つの制度が一体となって機能していたのです。
なぜ唐は繁栄できたのか
唐の繁栄を支えた最大の理由は制度同士の連携でした。
均田制だけでは不十分です。
租庸調だけでも不十分です。
府兵制だけでも国家は維持できません。
均田制で土地を与える。
租庸調で税を集める。
府兵制で国を守る。
この三本柱がうまく機能したことで唐は東アジア最大級の帝国へ成長しました。
長安は世界有数の国際都市となります。
まさに黄金時代だったのです。
なぜ均田制は崩壊したのか
成功した制度は永遠に続くように見えます。
しかし歴史はそうではありません。
均田制もやがて限界を迎えます。
人口増加と土地不足
唐が繁栄すると人口が増加しました。
人口増加は本来喜ばしいことです。
しかし均田制には問題がありました。
新たな農民へ配る土地が不足し始めたのです。
土地は無限ではありません。
人口が増え続ければ、均田制は維持しにくくなります。
成功した制度が抱えた最初の課題でした。
豪族の土地集中
さらに有力者たちは広大な土地を所有するようになります。
本来は農民へ分配されるはずの土地が、一部の有力者へ集中していきました。
その結果、土地を持たない農民が増加します。
土地を持たなければ税も徴収しにくくなります。
兵士の確保も難しくなります。
均田制の前提そのものが崩れ始めたのです。
成功した制度が抱えた問題
均田制は失敗した制度ではありません。
むしろ大成功した制度です。
しかし成功したからこそ人口が増えました。
人口が増えたからこそ土地不足が起きました。
つまり成功が新しい問題を生み出したのです。
歴史上の制度には共通する特徴があります。
課題を解決するために生まれる。
しかし新たな課題も生み出す。
均田制もその一例でした。
安史の乱は税制をどう変えたのか
均田制が揺らいでいた時代に、唐は大きな危機へ直面します。
それが安史の乱です。
安史の乱とは
755年、節度使の安禄山が反乱を起こしました。
反乱は長期間続きます。
唐は大きな打撃を受けました。
国家財政も混乱します。
地方支配も弱まります。
結果として税制度も大きな影響を受けました。
なぜ税が集まらなくなったのか
均田制は国家が土地を把握することで成り立っていました。
しかし戦乱によって土地管理が困難になります。
人口の把握も難しくなります。
地方の支配力も低下します。
その結果、従来の租庸調は機能しなくなっていきました。
唐王朝の財政危機
税が集まらない。
軍事費は増える。
国家財政は悪化する。
朝廷は新しい税制を必要としていました。
ここで登場するのが楊炎です。
楊炎はなぜ両税法を実施したのか
均田制が崩壊した以上、古い制度を続けることはできません。
楊炎は新しい答えを探しました。
楊炎の問題意識
楊炎は現実を見ていました。
均田制は機能しない。
土地分配も不可能。
租庸調も維持できない。
それならば発想を変えるしかありません。
制度を過去へ合わせるのではなく、現実へ合わせるべきだと考えたのです。
両税法とは

780年、楊炎は両税法を実施しました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 課税基準 | 土地・財産 |
| 納税時期 | 夏と秋 |
| 特徴 | 均田制に依存しない |
土地を配る制度は前提としません。
実際に持っている土地や財産を基準に課税します。
これは非常に大きな発想の転換でした。
なぜ画期的だったのか
両税法の重要な点は現実へ対応したことです。
理想ではなく現実を見る。
均田制が機能しないなら新しい制度を作る。
この柔軟さが唐後期を支えました。
第1章で学んだ秦の税制。
第2章で学んだ均田制と租庸調。
そして両税法。
中国税制史は常に変化への対応を続けてきたのです。
第2章まとめ
唐は均田制によって土地問題を解決しようとしました。
租庸調によって税を集めました。
府兵制によって兵士を確保しました。
三つの制度は唐の繁栄を支える柱となります。
しかし成功した制度も永遠ではありませんでした。
人口増加。
土地不足。
豪族の台頭。
そして安史の乱。
こうした変化によって均田制は崩壊します。
そこで楊炎は両税法を実施しました。
税制は固定された仕組みではありません。
社会の変化に合わせて姿を変えるものです。
では商業が発展し、お金が社会を動かすようになった時代には何が起きたのでしょうか。
次章では交子、銀、一条鞭法を通じて、貨幣経済と税制改革の関係を学びます。

